2014/02
女高師出身の科学者たち君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ16]
歴史資料室

 お茶の水女子大学の同窓会館の中に歴史資料室がある。初代校長中村正直の写真とともに開学の精神が説明されており、多くの資料が展示されている。
 理科卒業生で資料展示されているのは保井コノと黒田チカ両博士のコーナーがあるが、辻村みちよと湯浅年子はパネル展示で説明がある。さらに、研究者として活躍した人たちとして吉田武子(大正3年卒)、井口ヤス(大正5年卒)、加藤セチ(大正7年卒)、江角ヤス(大正9年卒)、和田富起(大正14年卒)の名前が挙げられている。


























 
 明治日本では男子の高等教育機関は急速に整備されたが、女子教育は遅々として進まなかった。多くの女性が差別に苦しみながら勉学に励む中、明治19年に女子師範学校、明治23年に東京女子高等師範が設立された。
 東京女子高等師範学校の卒業生には女性理学博士第1号の保井コノ、第2号の黒田チカ、理学博士第3号の加藤セチ、最初の農学博士辻村みちよ、フランスで活躍した物理学者・湯浅年子がいた。


女性初が3つの加藤セチ
 加藤セチは山形県東田川郡押切村(現在の三川町)で明治26年(1893)に生まれた。家は江戸時代から続く大地主、豪農であった。祖父の代から始められた西洋式の酪農経営が父の代の不況で倒産し、さらに明治27年の庄内地方大地震で家は倒壊。火災により母と兄、姉が焼死し、再起を図った父も43歳で病死し、継母と姉と妹、そしてセチの4人には巨額の負債が残された。
 鶴岡高等女学校在学中の15歳、加藤セチは生活のため教師になろうと中退し、山形女子師範学校を卒業して庄内の狩川小学校に奉職した。向学心の強い彼女は更に上の東京女子高等師範学校を目指し、大正3年(1914)に理科に合格し、大正7(1918)年に卒業すると北海道の北星女学校の教師となり、札幌に赴任した。北星女学校はサラ・スミス女史が1887年に設立したミッションスクールで、北星学園女子中学高等学校として現在も続いている。
 加藤セチは「給料の最も高い学校を選んだ」と云うが、偶々北海道帝国大学の佐藤昌介学長から北大は女性に門戸を開いていると聞き、入学を目指した。実際には教授会の反対など簡単ではなかったが、大正7年に選科生として入学を許可され、北大女子学生第1号となると、教師と学生の「二足の草鞋」で日夜頑張る日が続いた。
 大正10年(1921)に北海道帝国大学農学部を修了した。選科生のため卒業証書は貰えなかったが、「りんご種子発芽に対する乾燥の影響」という論文で修了証書を受け、農学部農芸化学研究室の副手に採用されて研究を続けることとなった。翌1922年東京に戻り、理化学研究所の研究生となった。女性研究員第1号である。
 加藤セチは吸収スペクトルを物理化学の研究に導入し、有機化合物のスペクトルと化学構造の関連を研究した。アセチレンの吸収スペクトルを研究した「アセチレンの重合」論文で昭和6年(1931)に京都大学より理学博士の学位を授与された。その後研究員となり、昭和26年に女性初の主任研究員となった。60歳で定年となった後も、1960年まで理研特別研究室嘱託として研究職を続け、退職後は相模女子大学、川村短期大学、上野学園大学などで教授を務めた。
 加藤セチは29歳で結婚した。加藤家を継ぐために建築家の夫得三郎を養子として迎え、長男、長女を育て、職業婦人として研究職を続けた。戦争で長男が戦死し、1959年に夫に先立たれたが健康長寿で、1989年(平成元年)に95歳で永眠した。


原子核物理の湯浅年子
 湯浅年子は東京上野桜木町で生まれた。7人兄弟の6番目で、父は東大工学部卒の農商務省特許局技術官僚、母は江戸時代から続く国学者の家系であった。子供の頃から母の茶の湯、琴、三味線、歌舞伎などに親しみ、父の語る科学者たちの話を聞きながら育った。
 東京女子高等師範付属高等女学校を経て女子高等師範学校理科へ進み、昭和6年(1931)に卒業すると女性に門戸を開いていた東京文理科大学物理学科(現在の筑波大学)に入学した。子供の頃から好奇心旺盛で顕微鏡観察が好きだったが、実験は苦手で物理学を選択したと云う。卒業研究は原子分子分光学・浅越寛一教授の指導で苦手な実験を克服して楽しむようになり、原子スペクトルの研究を卒業論文として1934年に卒業した。
 文理科大の副手となって研究を続け、1938年には母校女高師の助教授となるが、フランスのジョリオ・キュリー夫妻の人工放射能研究に憧れてフランス留学を決意した。フランス外務省の応募試験に合格して1940年に渡仏したものの独仏戦が始まっており、ラジューム研究所は軍の管理となって入所できなかった。しかしキュリー夫妻の世話でコレジ・ド・フランス原子核化学研究所に入ることが出来、ジョリオ・キュリー教授の元で原子核研究を開始した。留学期間は2年の予定であった。
 この研究所はジョリオ・キュリー夫妻のノーベル賞受賞を記念してコレジ・ド・フランスに設立された研究所で、世界各国から研究者が集まってきていたが、ドイツ軍のパリ侵攻により閉鎖されて、湯浅もパリを脱出した。その後、ドイツ軍の管理の下での研究が許可されると研究所に戻り、多くの海外研究者が帰国した中で湯浅はジョリオ・キュリーから直接指導を受けることが出来た。学位論文「人工放射性核から放出されたβ線連続スペクトルの研究」でフランス国家理学博士を取得した。しかし英米軍のパリ進攻のため政府の命令でドイツに避難してベルリン大学付属研究所に移ったが、昭和20年4月、ドイツの降伏によりシベリア経由で帰国した。
 日本も連合軍に降伏して太平洋戦争は終結し、湯浅年子は母校の教授に復職した。35歳であった。しかし研究熱は冷めず、理化学研究所仁科研究室嘱託、京都大学化学研究所講師嘱託などを兼務した。昭和24年にジョリオ・キュリーの招聘で再度渡仏してフランス国立中央科学研究所の研究員となり、原子核物理の研究を再開した。定年退職後も名誉研究員として研究を続けて、生涯をパリで過ごし、日本に帰国したのは国際会議が開催された時のみであった。
 湯浅年子は昭和37年に京都大学より理学博士の学位を取得し、66歳で紫綬褒章を受章、70歳で勲三等瑞宝章を受章している。


緑茶博士 辻村みちよ
 辻村みちよ(1888−1969)は埼玉県桶川市で生まれた。東京府立女子師範学校を卒業して東京女子高等師範理科で学び、保井コノ教授の指導を受けた。大正2年に卒業し、横浜高等女学校の教師として奉職した。当時、女高師出身者は3年間教職に就く義務があったが、彼女達は教師として高給で引く手数多だったようだ。その後郷里の埼玉女子師範の教師に赴任したが、さらに勉学を続ける思いが強くなり、大正9年に北海道帝国大学大学農学部農芸化学科食品栄養研究室の副手となった。後輩の加藤セチが選科生として学んでいたが、辻村は無給の副手となって学生達に混じって農学部の授業を聴講することが出来た。北大で2年間の研究と勉学の後、東京帝国大学医学部に移って生化学の研究を始めたが、関東大震災で研究が続けられなくなり理化学研究所に入所した。
 理化学研究所では鈴木梅太郎研究室で食品化学や栄養化学の研究に打ち込み、緑茶の研究をした。辻村は緑茶博士と云われるが、先ず緑茶にビタミンCが多く含まれていることを見つけ、さらに緑茶の成分のカテキンを結晶として取り出すことに成功した。次に渋み成分のタンニンを結晶として取り出すことにも成功した。これらを論文として東京帝国大学農学部に提出し、女性として最初の農学博士の学位を授与された。農学部には鈴木梅太郎教授がいる。博士号の審査会で「この論文は化学分析なので理学部へ回すべきだ」との意見があったと云われているが、このような論文を受け入れることで農学部の研究範囲を広げるとの意見で採択されたようだ。
 辻村みちよはその後も緑茶の研究を続け、昭和22年に東京女子高等師範学校教授、翌年初代家政学部長となった。66歳で定年退官後は実践女子大学教授となり、昭和38年の74歳まで教育に携わり、81年の生涯を研究と教育に捧げた。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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